中学受験は懐疑的だったが、AI時代に再評価すべき「国語」という最強のOS習得の場なのかも知れないと感じた

雑記

中学受験というシステム全体には、今でも強い懐疑心を抱いている。

実際すごい大変・・・

少子化傾向なのに、年々その過酷さを増している気がする

自分がやっていないこともあって、幼少期の貴重な時間を、過酷な偏差値競争やパターン化された演習に捧げる構造には、少し歪みを感じざるを得ない

確かに受験で得られるものもあるとは思うが、親としてはアホみたいにのびのびとして欲しいのである

まぁ親、本人双方が納得していたら何も問題ない

さて、AI(LLM)と対話する日々の中で、中学受験の「国語」で磨かれる能力だけは、AIを乗りこなすための「最強のOS」になるのではないか?と、認めざるを得ない自分もいるのである

そもそも国語の点数に関する構造は語彙力、漢字力、文章を読むスピード、概念・構造の把握、話の核の理解、といった要素に分解されると思う

仮にAIが知識を代替してくれるとしても、おそらくは出力された結果をテキストベースで自分で見る、そして理解する必要がある

それを理解するためにはまさに語彙力、漢字力、文章を読むスピードは必要となってくるだろう

A Iが素晴らしい結果を出力しても、理解できないのなら意味がないのである

仮に脳にAIを入れ込んでも(いずれそうなると思っている)、構造の理解は自分の能力に起因するはず

音声入力や動画入力よりも文章が優位と思う、それは後述する

1. 筆者の主張当てゲーム」という論理の訓練の中身

受験勉強のテキストを改めて通読して気づくのは、国語の読解とは文学鑑賞ではなく、多くの文章が徹底した「筆者の主張当てゲーム」だと思った。

文章の構造把握が重要であり、下記の要素が必要である

  • 接続詞という「方向指示器」: 「しかし」「つまり」「なぜなら」。これらを正確に追い、論理のベクトルを把握する力
  • 具体と抽象の往復運動: 「要するにどういうことか(抽象)」と「例えばどういうことか(具体)」を理解する力
  • 脱・主観のトレーニング: 「自分がどう思うか」を一旦脇に置き、本文にある根拠だけで論理を組み立てる。この「コンテキストを絶対視する力」

語彙力、漢字力、文章を読むスピードに加え、これらもAIを使っていても必要である

主に論文作る時のメインやけど、AIを作った資料作成にも生きる気がする

2. 動画の「身体知」とテキストの「概念知」

情報のメディア特性についても明確な使い分けを感じている。

  • 動画の優位性(手技): 例えばCVカテーテル挿入などの手技を学ぶなら、動画一択だ。空間的な位置関係やリズムは、言語化できない「連続体」であり、動画という動的情報が最も直感的に脳にインストールされる
  • テキストの優位性(複雑な事象・概念): 一方で、複雑な病態生理や歴史的な新解釈など、抽象度の高い事象ほどテキストが圧倒的に有利になると思う

「時間の拘束」から解放され、脳内で論理を解体し、再構築することを可能にする。

情報の「圧縮率」が動画とは桁違いである。

テキストを読む文化はそうそうなくならんと思う。

この圧縮率を音声や動画は超えられるのか?

あるとすると圧縮はできないが、睡眠学習的なものか?

受験での圧倒的な文章のシャワーで、読むことに慣れるというか自然になれば良い

読みすぎて嫌になったら大変・・・

3. AI時代の「メタ・スキル」としての読解

AIはもっともらしい文章を生成するが、それを「本質を突いているか」と見抜く力、あるいは大量の出力から核を抽出して再構成する力は、まさに中学受験の記述問題で鍛えられるスキルな気がする

いわば、「非構造化データ(混沌とした文章)を、論理という構造(OS)へ変換するアルゴリズム」を脳内に作る作業とも言えるか?このOSがしっかりしていれば、AIという超高速な思考エンジンを乗りこなせるようになる気がする

最後に

AIという巨大な「脳の拡張」が当たり前になる時代、人間側に残された最後の手綱は、言葉のロジックを操る「国語力」に他ならないとも感じている

AIがあるから受験いらんやろでなくて、AIをより上手く使うための中学受験と思えば最低限子どもの国語には協力してもいいと感じる今日この頃

以上参考になれば幸いです

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